16犀川線

 

犀川線は、東部車庫までは完全に11錦町B線と重複しています。
両路線とも長らく東部営業所が担当してきましたが、
現在では犀川線が北鉄金沢中央バス、錦町B線がほくてつバスとなっており、
しかもどちらも東部車庫を拠点とする東部営業所の担当ではなくなっています。
この幕は、現在使用されているもので金中の担当になってから新調されたものです。

犀川線は、昭和18(1943)年に誕生しています。
が、これは「北陸鉄道」としての記録で、実際には
統合前の才川自動車の路線がその始まりとしたほうがよいのかもしれません。

当時は「才川線」と名乗り、時刻表にも80年代前半までは
この名称が使用されていました。また、誕生当初のルートは
小立野から小立野新町、上野町と停車しながら善光寺坂を下って
三ツ口新町へと至り、そこから現在の18系統のルートで涌波、末へと
走っていました。
当時はまだ錦町から末へと下っていく現在の道がまだできておらず、
この道が完成した昭和49(1974)年2月に錦町経由へと変更され、
同時にワンマン化されています。
バスが通らなくなる涌波へは花里線を延伸することで代替としました。



▲かつて金沢の中心地だった橋場町にて07年夏に撮影。

しかしこの突然の変更に、バスが来なくなってしまう上野町、
小立野新町の住民が猛反発し、新聞にも載るほどの騒ぎとなります。
当時はまだ涌波地区と小立野の行き来も盛んだったようで、
涌波と市街地を結ぶ路線は花里線で代替となったものの、
小立野や出羽町、兼六園下方面へはバスがなくなるため、どうしても路線を復活
させてほしいという騒ぎになったようです。

結局、石川県陸運事務所から同区間の期間限定の仮免許が下りた同年8月から
涌波2丁目〜上野町〜小立野〜兼六園下の「涌波線」を新設することで
解決となりますが、わずか3ヶ月後には北鉄が「利用者があまりにも少ない」
「ワンマン化が困難」「そもそも期間限定という条件付だった」という理由で
再度廃止を表明します。再び住民による抗議、陳情が行われ、
やはりこのことも当時の新聞に記されています。

そして「冬季運休」という条件つきで来期も運転継続が決まりますが、
すぐに善光寺坂の通りが三口→小立野の一方通行となってしまったため
(これは現在でも続いています)、バスも一方通行となり朝に片道2本のみが走る
なんとも寂しい様子になってしまいました。

それでも昭和50(1975)年には「92番」の系統番号が与えられますが、
その8年後の昭和58(1983)年11月にひっそりと姿を消しています。



犀川線のほうは、昭和49(1974)年6月にははやくもダイヤの見直しが行われ、
これまで22便あった金沢駅〜駒帰の系統が15便に減便され、かわりに
兼六園下〜駒帰の系統が5便新設されました。

そして昭和50(1975)年4月には錦町B線と同じ「11」の
路線番号が与えられました。
この頃はバス全盛時代で、郊外路線である犀川線は錦町まで急行運転を行う
「準急」として運転されていました。停車停留所は、
金沢駅、武蔵ヶ辻、橋場町、兼六園下、出羽町、小立野、金大工学部、錦町
でした。この準急運転は他の準急路線と同様、昭和56年改正で各停に
変更されています。

▲昭和56年以前の横幕です。兼六園下〜駒帰の幕だけ
なぜか「末」の表記が入っています。
画像ご提供:野山あずさ さん。




昭和59(1984)年の路線番号再編で、犀川線は独立した「16」番の
番号を与えられました。
それ以降大型幕も小型幕も、ローマ字なし幕もこの幕と同じ表記の
ものが使用されていました。
「橋場町」表記ではなく「小立野」表記なのは兼六園下発の便も
多数設定されており、幕を共用するためだと思われます。
また東部営業所担当時代は、16系統の幕は画像のように中型車にしか
入っておらず、運用も中型車に限定されていました。



小立野発の駒帰行きも一時期設定されており、この幕が使用されていました。



東部車庫〜駒帰という出入庫便も一時期はかなりの本数が用意されており、
この幕が使われていました。



区間便として、数本が上辰巳行きとして運行されています。
この区間便は昭和49(1974)年6月改正でいったん消滅していますが、
80年代になって復活しています。
この74年の改正では、末までの区間便も廃止されています。



金中の幕は「橋場町」が表記にはいっていますが、
東部の幕は「小立野」のみの表記となっており、これは駒帰行きも
上辰巳行きも同様となっています。


▲LED幕を輝かせて駒帰にて発車を待つ金沢駅西口ゆき。

この上辰巳系統は、平成19(2007)年4月の改正で朝と夜の一往復が
東部担当に戻っています。ただしこれは「錦町B線」の延長扱いのようで、
北鉄の公式サイトでもそのように表示されています。
運用の効率面で言えば間違いなくこちらのほうがよいわけで、
この調子で朝晩の鳴増線も柳橋担当に戻ってくれれば。。。



準急時代の金沢駅行きの幕です。
当時はまだ小型幕しかなく、種別幕があったはずなのに
行先幕のほうにも「準急」と書かれていました。

なお兼六園下行きは経由地表記なしで「11準急 兼六園下」、
小立野行きも同様の表記でやはり経由地表記はありませんでした。



画像はおがさんご提供のもので、永安町付近での撮影とのことです。
当時はまだ初代RJが犀川線の専用車両で、この車両の幕はまだ
「橋場」表記でした。
この車両は当初は寺井営業所に配属されていたのですが、
90年ごろまでに東部に移籍しているみたいですね。

画像のように、80年代から90年代前半までの犀川線は中型車が充てられていました。
その後鷹ノ巣トンネル付近の道路改良が進むと一時期だけですが
ハイグレード車も登場していました。
そして平成13(2001)年3月に、ほくてつバスに移管されると
再び中型車の運行に戻り、03年の金中への再移管でも車両ごと引き継がれたため、
やはり現在でも中型車での運用がメインとなっています。

なお、金中に移管された後も05年4月改正までは
医王山、田上、犀川、東山線の車両は柳橋に駐在していました。
現在では安原線や示野線とも共通の運用に入っており、おかげで
ときおり妙な車両が姿を見せるようになっています。



大型幕になると、「橋場町」表記になりました。



平成10(1998)年3月改正で、犀川線は金沢駅西口発着に変更されました。
この改正では幕も合理化され、錦町B線や湯涌線と共通の
「橋場町 金沢駅西口」の白黒幕が使用されるようになりました。
その後平成13(2001)年3月にほくてつバスに移管されますが、
幕は東部時代の白黒幕がそのまま使用されていたと思います。



平成15(2003)年4月から、北鉄金沢中央バスに移管され
幕も新調されました。金中は錦町B線も湯涌線も担当していないので、
わざわざ白黒幕にせず、カラー幕で番号入りの16系統専用幕が作られています。

しかし、平成20(2008)年12月改正で再び金沢駅東口発着に
戻ったためこの幕は見られなくなっています。金中なら幕を新調するのが
普通なのですが、現在ではほとんどの車両がLEDとなっていますので
おそらく幕は新調されないものと思われます。



東部営業所時代は上辰巳発の兼六園下行きと駒帰発の兼六園下行きでは
幕が異なっていました。
こちらは上辰巳発の兼六園下行きの幕です。



こちらは駒帰発の兼六園下行きの幕です。
なぜこちらには経由地表記がなかったのでしょうか。。。



東部時代の98年以降と、ほくてつバス時代はやはり白黒幕が使用されていました。



03年4月に金中の担当となると、兼六園下行きの幕も新調されました。

この兼六園下発着の便は07年4月改正で消滅しています。
これは該当便が金沢駅西口まで延伸されたもので、発展的解消
ということです。



駒帰・上辰巳〜小立野という系統もかつては存在し、
この幕が使用されていました。



こちらは東部車庫〜駒帰の系統で使用されていた幕です。



この東部車庫〜駒帰系統も98年からは白黒幕となっていました。


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