循環線 
 


かつて金沢市内を走っていた循環線を
ご紹介します。

昭和50年の路線番号制定時には「1」
の番号を与えられていることからも、
循環線が金沢市内路線を代表する路線
であったことが分かります。

たいへんな狭隘路線であったことが
災いして廃止されてしまいましたが、
現在ではルートの一部がふらっとバス
に受け継がれています。

左の絵は常盤橋の「ウルトラカーブ」
のイメージ画です。たいへん下手で
申し訳ないです。。。


■循環線の歴史


▲エルさんに循環線をイメージして描いていただきました。

循環線は、北陸鉄道の前身の一つである金沢電気軌道が昭和初期に開業させています。
昭和8(1933)年3月に「桜橋・常盤橋線延長の許可申請」とあるのが
資料の初見です。おそらくこの認可が下りて循環線となったのではないかと思われます。

経路は、
金沢駅〜横安江町〜彦三〜武蔵ヶ辻〜橋場町〜天神橋〜常盤橋〜賢坂辻〜
〜兼六園下〜桜橋〜片町中央通り〜富本町〜金沢駅

で、金沢を代表する路線にしてはずいぶん複雑な経路のように思います。
運行開始にあたっては、「交通量極めて僅少」という理由でバス運行が
認められたのだといいます。

開業以降の初期の循環線の様子については、資料不足のため昭和28(1953)年の
社内報「ほくてつ」10周年記念号のほかはほとんど知ることはできません。
そこから、循環線もほかの路線と同様戦時中は運行休止を余儀なく
されていたということや復活後(「北陸鉄道」の路線としてはこのときに誕生か)の担当は
胡桃町営業所(後の兼六園下営業所、現在では兼六園下モータープール)だった
ということが分かります。
復活の年次ですが、この「ほくてつ」によると昭和23(1948)年ごろということです。
循環線の廃止時の新聞報道では「30年の歴史に幕」とあり、逆算すると
昭和24(1949)年となり、「ほくてつ」の記述ともほぼ一致します。

また、同じく「ほくてつ」の90年代のものに、退職された方のインタビュー記事が
載っており、そこから昭和30年代に循環線で使用されていたボンネットバスの
通称は「青バス」(そのまま…)で、三八豪雪のときは柳橋車庫からバスを出すのが
やっとだった、という体験談が掲載されています。

ここからも分かるように、昭和37(1962)年7月の柳橋営業所の発足に伴い
胡桃町営業所は自動車区に格下げとなり柳橋営業所の下に置かれるようになりました。
柳橋発足時には胡桃町のバスの約半数(22〜23台)を柳橋に移動させたそうです。
循環線はおそらくそのまま胡桃町担当として残ったものと思われますが、
先に紹介した体験談のほか方のインタビューでもしばしば「柳橋担当だった」という
話が出てきているので、柳橋にも車両が配置されていたのかもしれません。


▲循環線の後を受け継いだのが旭町線です。

循環線は市電が走らないルートを通っていたため、バス全盛期となる
昭和30〜40年代前半以前から、市民の生活の足として活躍していたようです。
ただし、徐々にマイカーが普及してくると狭隘区間を走る循環線は遅れも
目立つようになり、ほぼ10分間隔のダイヤなのに30分以上バスが来なかったり、
来たと思えば2台数珠つなぎだったり、ということも多くあったみたいで
当時の新聞の投書欄にも循環線に対しての「苦情」が載ったりしたこともありました。
まぁそれだけ利用されていたということなのでしょう。。。

昭和40年ごろはバスの全盛期で、循環線も常に満員の乗客を乗せて走っていました。
乗務員の交代すらすらできないほど車内は混雑していて、
当時は運転席の窓から出入りして乗務交代をしていたそうです。

その循環線のハイライトは、なんといっても常盤橋の通称「ウルトラカーブ」で、
幅員わずか3.8m、角度は鋭角70°というとんでもないカーブです。
現在もふらっとバスでこのカーブを体験することができますが、
(ただし現在ではブロック塀もなくなり、またどう見ても幅員が以前より広くなっていますが)
ほんとにすさまじいカーブです。ここを小型とはいえ、長さ8.07m・幅2.25mの
バスが現在とは異なり両方向に運行していたのですから驚きです。

このカーブの正面には民家とバス停があり、この民家の屋根瓦にバスがぶつかり
屋根を破壊するという事故がしょっちゅうあったそうです。
(「ほくてつ」によりますと、循環線での事故は年間15件ほどあり、
その多くがこの常盤橋交差点での事故だったそうです。)
そのため民家には運転士への目印として軒先に旗(赤色のものだったそうです)を
さげてくれていました。しかし、あまりにもこうした事故が多いことから
この家の住民がとうとう怒ってしまい、
ある日運転士がこの家の軒先を見ると旗のかわりに「のこぎり」がぶらさがって
いたそうです。『ぶつかったらあんたのバスもただじゃおかんぞ』
という脅し(?)で、さすがにこれには循環線の運転士・車掌とも苦笑するしかなかった
という逸話があります。

さて、循環線は両方向で循環運転を行っておりしかも全盛期はほぼ10分間隔で
の運行だったことから、頻繁に離合する必要がありました。
バス一台がやっと通れるような道が続く循環線で、どうやって離合していたのか
気になるところですが、離合場所はとくに決まっておらず『出たとこ勝負』だった
そうです(循環線に乗務経験のある運転士氏談)。
当然常盤橋交差点付近での離合も生じたわけで、この場合は天神橋方向から来たバスが
交差点を右折せずに直進し、横山町方向から来た車両を先に通してから後退して角を
曲がっていたそうです。このような時にはさぞ車掌が大活躍したことでしょう。

北陸鉄道に入社して第一線で活躍する運転士は、まずこの循環線に乗務することに
なっていたそうで、さぞかし運転士氏も怖かったのではないかと思うのですが、
『スリルがあって楽しかった』そうです。
しかも一部の運転士の中では一周何分で運転できるか、という競争も行われて
いたようで、最高記録は23分だったとか(本当かどうかかなり怪しいですが…)。

こんな無茶振りが続いたため、社内報「ほくてつ」に『実践
(「安全輸送は当社の使命であり、その目標に向かって努力が払われている」という
リード文に続いて2ページにわたる循環線の乗務員の特集が組まれています)
というタイトルで特集記事が組まれてしまったのではないかと。。。


それでも「横山町や常盤橋の直角カーブを切り替えせずに曲がれたら一人前の運転士の証」
とあって、新人運転士たちはここで運転技術を磨いていったとのことです。


▲横山町のカーブもなかなかのものです。

"循環線伝説"は尽きませんが、ここからは経路・ダイヤの変遷をご紹介します。

昭和41(1966)年6月からは、泉野線などとともに料金箱制度を採用
しています。これは、ワンマン化のためではなく乗車券の印刷代や集札後の
事務量の削減による経費節減が目的だったようです。

市電廃止の昭和42(1967)年2月改正時点での循環線は、
金沢駅〜常盤橋〜桜橋〜金沢駅  76往復
金沢駅〜常盤橋〜兼六園下      4往復
金沢駅〜桜橋〜兼六園下        4往復     
という本数で、当時は11分間隔での運行だったようです。また、
おそらくこの頃に循環線の担当営業所が柳橋から金沢駅前に変更されたものと思われます。

翌昭和43(1968)年11月の改正では、
11時〜14時を15分間隔に、19時〜21時を22分間隔に変更し
需要に合った本数に変更しています。

この頃まで循環線で使用されていた車両は、59年式のいすゞBA341Aで
標準仕様車よりも車体が短くて狭い特注車を用いていましたが、
経年による置き換えの必要性も出てきたため(昔はバスの寿命も短かったのです)、
昭和46(1971)年と翌47(72)年に循環線専用車両全12両が
新車(いすゞBA01N:トップ絵のバス)に置き換えられました。
(このうち実働車両は10両だったそうです。)

まず昭和46年7月に4両が、そして翌47年6月に8両が納車されました。
47年6月の8両導入時には、兼六園下にこの8両が集結してわざわざパレードまで
行ったといいますから、循環線の存在がいかに大きかったかが分かります。

車両寸法は全長8.07m、全幅2.25m、全高3.05mで、
ボディは富士重工業製。エンジンは大型バスと同一のものを採用し、
全国での生産台数もわずか90台とのことです。そのうちの12台が北鉄だった
のですから驚きですね。
循環線の元乗務員氏によると、このバスの愛称は「コメット」だったそうです。
理由はまったく不明ですが、ララミー牧場(注)みたいなもんでしょうか。
(注)ララミー牧場:もりさけてんさんによると、西部営業所のことだそうです。
なんでも、開業当時の西部営業所は周辺に何もなく、この愛称が付けられたのだとか。


この「コメット」は循環線の事情に対応して作られており、
狭隘路線であることから急停車などに備えて、とくに安全対策の見地から
シートを全て前向きの一人がけとし、床に滑り止めマットを張るなど
車内事故の防止に工夫と配慮がなされていたそうです。

そしてこの循環線の新車には試験的に「バスオートスライド広告」が
導入されました。これは昭和48(1973)年の春から取り付けられており、
回転式「次とまります」のほか、運賃表示器下部や乗降ドア上の電気照明入り
広告など広告媒体の開発に積極的だった当時の北鉄らしい装置です。
電気照明で照らされた枠内に広告が表示されていて、3分おきに順次スライドして
複数の広告を見せるもので、増収が期待されるとして循環線の12台全車に
取り付けられています。

どうもこの頃の北鉄技術陣の中では「回転式」が流行だったらしく、
野々市営業所の中にも同様の装置(方向幕の機器を流用したそうです)が
設置され、「安全運転」「免許更新 ○日まで」といった言葉が日替わりで
表示されていたそうです。


▲かつて「北国劇場前」バス停のあった付近。

さて、循環線は経路も初期とは少しずつ異なってきています。
まず昭和41(1966)年のバス停再編時に、片町金劇前を通過とし、
これは循環線だけではありませんが横伝馬町(片町中央通と宝船寺町(現.長町)間)
バス停も廃止されています。

そして循環線最大の経路変更案が昭和46(1971)年6月に提出されます。
この当時すでにマイカーが普及してきており、金沢駅と横安江町を結ぶ
別院通り(常盤橋方向行きが経由)と西門通り(金沢駅方向行きが経由)のラッシュ時の
混雑がとくにひどくなってきていることから、この区間を廃止して
金沢駅〜白銀町(現.本町)〜武蔵ヶ辻〜橋場町〜 とする案が北鉄から金沢市に
提出されました。
しかしこれに対して金沢市の交通運輸特別委員会は、
・別院通り〜武蔵ヶ辻間の取りやめによって、後背地に住む住民が不便になる
・交通渋滞緩和の面からのみ経路変更するのは問題
などと反対の声が多数上がったことから、この変更案は結局見送られることとなります。

そのかわり(?)、同時に北鉄が提出していた桜橋〜十三間町〜清川町間を、
暫定開通した三口新線(新竪)経由とする案は、同線の正式開通後
(これは一部の民家が立ち退き拒否をしていたため)に認められました。

循環線が新竪経由となったのは昭和46(1971)年12月のことで、
変更に際してはこれまでの利用者が不便にならないように鱗町交差点と片町の間に
2ヶ所バス停を設置することが条件だったそうですが、どうも実際には
新竪バス停のみしか設置されていないようです。

昭和50年代に入ると、狭隘区間を減らして定時性確保に努めていた循環線も
時代の流れには逆らえなくなってきました。
昭和50(1975)年4月に色別方向幕の制度が始まると、循環線は名誉ある(?)
「1」の路線番号を与えられましたが、急増するマイカーによって狭隘区間での
離合などのためにやはり定時運転が難しかったことと、安全面の問題、そして
ワンマン化ができないといった理由から昭和54(1979)年夏、とうとう北鉄から
廃止が発表されてしまいました。

沿線の、とくに横山町や常盤橋付近の利用者が陳情を行ったりもしましたが、
陸運局も安全面などを考慮してか廃止を認めたため、循環線は
昭和54(1979)年10月20日に廃止されてしまいました。

末期の循環線(1978年10月)の時刻表を以下に掲載しますが、
両方向50回ずつの運転で、しかも一日4000人も運んでいたといいますから、
決して採算面での理由での廃止ではなかったことが分かります。
(それだけに廃止が悔やまれます…)

廃止代替は、
1 旭町線 金沢駅〜富本町〜新竪〜兼六園下〜暁町〜旭町」の新設と、
卯辰山線の増便(天神橋利用者のため)でまかなわれましたが、
あれほどもめた横安江町や彦三地区は何の代替も行われませんでした。

働き場を失った11両の「コメット」のうち7両は廃車となり、
残りの4両は能登・加賀に転属していきました。
能登地区では後山線で、加賀地区では白峰支所でそれぞれ短い余生を送った
そうです。そして廃車も早く、昭和58(1983)年9月には姿を消しています。

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■循環線の時刻表・方向幕

 ■昭和53(1978)年10月   1 循環線
 新竪先廻り  新竪先廻り  常盤橋先廻り  常盤橋先廻り



  





  














634648714 132213361402 629646709 131913361359
656710736 133713511417 655712735 134114581421
707721747 135114051431 713730753 135614131436
718732758 140614201446 724741804 141014271450
729743809 142114351501 735752814 142514421405
740754820 143514491515 746803826 144014571520
751805831 145015041530 757814837 145515121535
802816842 150515201545 808825848 151015271550
813827853 152015341600 819836859 152515421605
824838904 153515491615 833850913 154015571620
838852918 155016041630 853910933 155516121635
857911937 160516191645 910927950 161016271650
919933959 162016341700 9309471010 162516421705
9349481014 163516491715 94410011024 164016571720
94810021028 165017041730 95910161039 165517121735
100310171043 170517191745 101410311054 171017271750
101810221058 172017341800 102910461109 172517421805
104010541120 173517491815 104311001123 174017571820
110211161142 175018041830 105811151138 175518121835
112411381204 180518191845 111311301153 181518321855
114612001226 183518491915 112811451208 184519021925
120812221248 190519191945 115012071230 191519321955
123012441310 193519492015 121212291252 194519322025
125213061332 200520192045 123412511314 201520322055
130713211347 203520492115 125713141337 204521022125

時刻表ご提供:Commuter Rapidさん。


…どう考えても一周23分は不可能そうですね。この時刻表からは、
一周は40分だったことや、運転間隔がバラバラだったことが分かります。

ちなみに、1980年版(取材は79年と思われる)の「ブルーガイド」(観光案内本)
には各バス停間の所要時分が掲載されています。
時刻表の時分とは一致しませんが、参考までに載せておきます。

金沢駅〜(3分)〜横安江町〜(1分)〜彦三〜(2分)〜武蔵ヶ辻〜(2分)〜尾張町〜〜(1分)〜橋場町〜
 〜(2分)〜天神橋〜(4分)〜常盤橋〜(3分)〜小将町〜(1分)〜〜兼六園下〜(2分)〜県庁前〜
 〜(1分)〜本多町〜(4分)〜片町〜(3分)〜富本町〜〜(2分)〜長土塀〜(2分)〜六枚町〜(2分)〜金沢駅



方向幕も掲載しておきます。途中で幕をまわすことなく、
金沢駅発車時からこの幕のままだったようです。また、反対回りは
「常盤橋」ではなく「新竪」と書かれていたものと思われます。
(さらにその昔はは「桜橋」でした。)




▲城下まち周遊号も循環線の流れをくむ路線です。

循環線の経路の半分は旭町線に受け継がれましたが、
歴史は繰り返されるのか、現在循環線の経路で辿れないのは
西門通りのわずか100mほどのみとなっています。

別院通りは「ふらっとバス此花ルート」で、
金沢駅〜横安江町〜彦三交差点と本多町〜十三間町〜片町は「城下まち周遊号」で、
兼六園下〜常盤橋〜天神橋〜橋場町〜武蔵ヶ辻は「ふらっとバス材木ルート」で
それぞれ辿ることができます。
循環線に思いをはせながら、これらの路線に乗車してみるのも楽しいかもしれません。

(09.11.03 更新)


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【方向幕博物館】91旭町線