高松線
かつては兼六園下〜高松間を走っていた高松線ですが、
平成10(1998)年3月改正で津幡中央〜高松に短縮され、
担当も長年続いた柳橋営業所から能登西部バスに移管され
その形が廃止まで続きました。
画像の幕は能登西部バス担当になってから作られたものです。
ただ、幕が入っていなかった車両も多くいたようで、白幕にプラ板で
「津幡中央=高松」と書いて走っていることもよくありました。
柳橋時代の初代エアロスターなどにはこの幕が入っていました。
経由地表記が縦ではなく横並びになっているのが珍しいですね。
高松線の誕生は昭和32(1957)年7月で、
片町〜森本〜宇ノ気〜高松海岸口間で開業しました。
その終点から、路線名も当初は「高松海岸線」というものでした。
担当は泉営業所で、そのため数年後には金沢市内の起点は泉車庫となっています。
なお、宇の気までは昭和26(1951)年10月に津幡線の延長扱いで
開通していたようです。
当時はまだ現在の県道高松内灘線は秋浜までしか開通しておらず、
秋浜からはさらに海岸寄りの道が県道となっていました(のちの宇ノ気町道155号線)。
この道路は七塚では「縦貫道路」と呼ばれ、文字通り各集落を縦貫していました。
ちなみに昭和以前の七塚の道路は、JR七尾線の東側を通る能登街道と
各集落を横に結ぶ道路がメインだったそうで、この縦貫道路も所々に水溜りや
坂道のある悪路で、昭和初期の改修以前は歩行者の通行も困難だったそうです。
さすがにこれでは荷車も通れないということで、昭和3(1928)年までに
幅員を5.4mに拡幅する工事が完成しました(それでも狭い…)。
そして昭和29(1954)年に現在の県道の一部が開通します。
この道は内灘試射場に伴う補償として建設されたため、
行政道路と呼ばれているようです。
この時開通したのは白尾〜秋浜間の1.1キロで、バスもここを走ることになります。
七塚町史によると、新県道上に設置された停留所は4箇所で
白尾、外日角、秋浜はその後も変わることなく同じ位置に置かれていますが、
七塚役場西口(当時は役場の位置が異なっていたため、バス停名は違うはずですが不明。
「浜北」の可能性もあり…?)はやや秋浜寄りに設置されていたようです。
高松線の開業当初は、ここから先の新県道はまだ開通しておらず、
県道は海岸沿いの縦貫道路を通っていました。
七塚町史によると、各集落に一つバス停が置かれていたようでそこからバス停名を
推測すると、浜北、遠塚、松浜、木津という順だと思われます。
木津から先もバスはこの縦貫道路を高松海岸口に向かって進んでいきます。
この高松海岸口がいったいどこにあったのかは分かりませんが、
兼六園下〜高松海岸口間は29.6キロだったことは社内報「ほくてつ」に
書かれていますので大雑把ではありますが測ってみたところ、
だいたい高松の南町交差点付近になりました。この付近にはかほく市営バスの車庫
(国鉄バス時代の車庫か)や高松海岸への道路もあることから、
だいだいの位置はここで間違いないものと思います。
開業当初の高松線は、津幡まで完全に津幡線と重複していました。
高松線は国道経由、津幡経由は旧道経由と後に棲み分けがされるのは
昭和43(1968)年11月のことです。
それまでは同一路線のようにも見える2路線ですが、高松線は泉営業所が、
津幡線は柳橋営業所がそれぞれ担当していました。
昭和43(1968)年11月改正では国道(八幡)経由に変更されたほか、
兼六園下発着に変更されています。
これは泉営業所の廃止に伴うもので、おそらくこの時に高松線も柳橋営業所の
担当となったものと思われます。
昭和45(1970)年3月からは、金沢市内での速達性と乗客の遠近分離を
図るために準急運転が始まりました。
これにより、南町・尾張町・森下町(現.東山)・春日町が通過となっています。
(高道町(現.森山)が通過となっていませんが、この当時はまだバス停が設置されて
いなかったようです。)
この準急運転は昭和56(1981)年まで続けられました。
▲昭和50年4月当時の幕です。「準急」「80」が誇らしいですね。
依然として秋浜から先は幅員の狭い県道を通っていた高松線ですが、
昭和37(1962)年に残りの秋浜〜木津間の1.9キロが開通しました。
しか当初は未舗装だったようで、また海岸沿いの集落の住民の利便も考えたのか
しばらくは開業以来の旧道経由が続き、
新県道の舗装完了と(同区間の県道指定が昭和48年3月)七塚町役場の現在地への移転に伴い、
昭和48(1973)年6月に現.県道経由に変更され、
バスは秋浜からこの県道を走り松浜から国道159号線に出るという経路になりました。
また、このときに終点も高松海岸口から中沼に変更されています。
この県道もセンターラインがない区間があったりするなど、なかなか狭い道なのですが、
旧道はさらにとんでもない道路のようで、幅員の狭さはもちろんのこと
カーブ、勾配があり、冬季運行が困難なほどで運休も多かったといいますから
(これは社内報「ほくてつ」でも七塚町史でも書かれています)、
相当な悪路だったのでしょう…
と推測しますが、現在もこの道は残っていて辿ることができます。
しかし、バスが通れるのかすら怪しいほどの道路です。
この変更でスピードアップや運休回数の減少などが図られましたが、
反面、旧県道沿いの集落の住民にとってはバス停までの砂丘の坂を上下しなければ
ならない不便も生じました。(七塚町史より。)
ということは、この改正まではバスのほうが砂丘の坂を上下していたということですね。
なおこの頃の本数は毎時1本ほど(13〜15往復)だったようです。
昭和50(1975)年4月には、「80」の路線番号が与えられました。
金沢北部の筆頭路線と位置づけられていたようで、
まさか廃止されるとは当時の人は想像もできなかったことでしょう。。。
画像の幕はその当時のものです。
昭和59(1984)年11月からは、本宇の気〜松浜間がフリーバス区間に指定され
需要の掘り起こしが図られています。
またこの月に路線番号の再編が行われ、高松線は路線番号を失っています。
▲指江バス停付近。かつてのメイン国道は現在では側道化し、
宇ノ気方面の道路は塞がれています。
昭和60(1985)年頃からは本宇の気までの区間便も登場したり、
平成3(1991)年には河北台商業高校に一部の便が立ち寄るようになりました。
(本宇の気から71系統の経路で河北台高校へ、そこから農免道路(県道)経由で
白尾へと至っていたようです。)
昭和60年の調査では高松線の乗車密度は13.7人で、津幡線や旭町線を上回っており、
この頃までが高松線の華やかなりし時代でした。
そして、JR発足と91年の七尾線電化による電車のスピードアップ、
少子化による通学利用者の激減とマイカー普及によって
ほかの中距離路線と同様、高松線も急速に衰退していきます。
平成3(1991)年改正では、中沼までの運行を取りやめ高松止まりとし、
翌年の改正では、津幡線の国道経由便の増加により、同線と重なる時間帯の
間引きが行われ、これまで1時間ヘッドだった高松線は日中は1時間半間隔と
なっています。
これは翌年の改正で、津幡線の大半が国道経由となったことで
さらに顕著となり、高松線は津幡線の延伸のような位置づけとなってしまいました。
▲ハイグレード車にはローマ字併記幕が入っていました。
幕情報ご提供:もりさけてんさん。
95年度には新車のハイグレード車が投入され、テコ入れが図られましたが
利用者は戻らず、97年には2時間〜2時間半間隔となり、
本数はほぼ半減となっています。
そしてとうとう平成10(1998)年3月改正で、高松線は津幡中央〜高松に
短縮され、担当も能登西部バスに移管されました。
路線は分断されたとはいえ、津幡中央をまたがって乗車する場合の運賃は
これまでのままで、津幡中央降車時に最終目的地までの運賃を支払い、運転士から
乗り継ぎ券の発行を受けることで対応するようになりました。
この分断によって利用者はますます減ってしまいました…
分断後の高松線は、34−880のエアロスターが当初は使用されていましたが、
その後中型車の070にかわり、そして怪しげな中古車日野RBが運用に
就くようになりました。
その後、同じく日野小型の能登西部065号車が高松線の専用車両となり、
数年間活躍しましたが、06年ごろより中型化し画像の787号車が
頻繁に姿を見せるようになりました。
残念ながら乗客は年々減り続け、30年前は朝の兼六園下行きは
遠塚あたりで既に立客が出るほどの混雑っぷりだったものが、
分断後は朝に宇ノ気・七塚から高松方面へ向かう数人と、
津幡へ通院する数人の固定客がいたそうなのですが、それも年々減っていき
(乗務員氏いわく、津幡へ通院する人は家族の通勤マイカーに相乗りしていくように
なったそうで、帰りの片道利用のみになった人も多いとのことです)、
07年にはすでに全線通しても一日数人にまで乗客は減少してしまいました。
▲高松駅にて。末期の高松線の専用車両は564プチでした。
それでも改善の努力は行われ、平成15(2003)年4月からは終点を高松駅に変更し、
さらに05〜06年頃に本津幡駅へも乗り入れて利便性向上にも努めてきましたが、
残念ながらさらに利用者は減り続け、08年秋からはついに3往復にまで減り
運用も羽咋線と共通となり、免許維持路線と化してしまいました。
そしてとうとう平成21(2009)年9月末限りで高松線は姿を消してしまいました。
52年も続いた名路線の最期はあまりにも悲しいものでした。
▲09年9月上旬、高松駅に掲示が。。。
「高松駅」表記の幕も、名鉄中古車など比較的新しい車両に入っていました。
▲横幕です。LEDは前幕も横幕も「高松」でした。
津幡中央行きの幕です。幕が作られたのは比較的最近で、
プラ板掲出で対応していた時代が長かったように思います。
▲津幡での待機場所は津幡町総合体育館の駐車場でした。
本宇の気までの区間便も98年改正で消滅しています。
こちらの幕は経由地表記は2段書きとなっています。
これは夜の最後の1〜2本に運転されていたもので、
おそらく宇の気から先は乗客がいなかったためカットしたのでしょう。。。
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