辰口線・川北線
辰口線は、金沢駅と辰口和光台を結んでいる路線で、
朝に香林坊発の便があるのみでとくに区間便や末端での枝分かれ系統も
ありませんが、経路の途中でさまざまな場所に寄り道をするため
幕の種類は豊富です。
画像の幕は、工大ハイテクセンターや北陸先端科学技術大学院大学を
経由せずに辰口を目指す系統のものです。
しかし現在はほくてつバス南部の担当のため、幕を見ることはできません。
現在は四十万から加賀産業道路を経由している辰口線ですが、91年までは
松任経由で松任からは現在の川北線とほぼ同じ経路で辰口・小松へと至っていました。
画像は、H−199さんご提供のもので85年ごろのご撮影とのことです。
辰口線の元となった松任と川北、辰口方面を結ぶ路線は
昭和10(1935)年に松任駅〜山田先出間で山田自動車が開業した草深線が
その始まりです。しかし、その後の戦時統合で北陸鉄道に吸収され、さらに
戦局の悪化に伴いバス路線は休止を余儀なくされたようです。
終戦後の昭和21(1946)年8月、ようやくこの地区に北鉄バスが復活します。
まず復活したのは、美川〜橘〜田子島〜草深〜中島〜鶴来の路線で、
中島農協の裏に車庫があったそうです。
この路線には20人乗りの木炭バスが使用されており、7時に火を入れても
き出せる状態になるのは8時過ぎだったといいます。
しかしこの路線は復活後早々から利用者が減少し、昭和23(1948)年には
はやくも廃止されてしまいました。
かわりにこの年から松任〜草深〜美川間と金沢〜松任〜草深〜辰口間で路線が
開設されました。川北線と辰口線のことと思われますが、資料とした川北町史には
路線名は書かれていませんでしたので、正確な路線名は不明です。
「川北線」という路線名が出てくるのは昭和31(1956)年のことで、
川北町史に『川北線の松任〜草深〜山田先出〜壱ツ屋間開業』とあります。
そして翌年3月には川北線の松任〜草深〜与九郎島〜田子島〜橘〜美川間も開業し、
川北線にとってのバス黄金時代を迎えます。
しかし10年後の昭和43(1968)年11月改正では、準急美川線の開業によって重複する
木呂場〜美川間が廃止され、しかもその木呂場行きもわずか2往復で
大半は山田先出止まりとなりました。
この木呂場系統も数年後には廃止されています
(時期はワンマン化が行われた昭和49(1974)年2月か)。
一方の辰口線は、本数は少ないながらもこの頃までには金沢近郊路線として成長し、
準急辰口線となっています。運行区間は、
兼六園下〜香林坊〜有松〜松任〜山田先出〜辰口〜和気〜河田〜小松駅
という現在では考えられない長距離の路線でした。
金沢市内では準急運転をしていて、停車停留所は
兼六園下、香林坊、片町(小松方向のみ)、広小路、泉一丁目、有松、二万堂、伏見橋(小松方向のみ)、
西野々市、太平寺、番匠、松任で、松任からは各停留所に停車していました。
昭和50年代に入って名鉄辰口ハイタウンの分譲が始まると、辰口ハイタウン止まりの
系統も登場しましたが、それでも当時の本数は4往復で朝晩中心のダイヤでした。
またこのうち3往復が小松まで走っていることから、当時の辰口線は
小松東部と辰口・川北から松任・金沢への通勤通学輸送を主な目的とした長大ローカル線
だったのではないかと考えられます。
また昭和56(1981)年5月からは、川北線も午前と午後の2往復ずつが
山田先出から辰口ハイタウンまで延伸されています。
平成2(1990)年改正では小松駅まで走る便は一往復のみとなり、
辰口止まりとなった残りの便は緑ヶ丘十丁目へ延伸されました。
しかしなぜか幕は新調されず、川北線も現在に至るまで緑ヶ丘行きは
「辰口ハイタウン」の幕を掲げたままです。
画像はおがさんご提供の29−579で、90年ごろのご撮影とのことです。
快速小松線と同じような車両が投入されていたようで、日野RTやハイグレード車も
この頃から辰口線に姿を見せるようになってきます。
平成3(1991)年1月、辰口線は大きく姿を変えます。
これまでの松任経由から加賀産業道路経由となり、このときに
中四十万、加賀産新庄、加賀産上林、加賀産みずほ台、加賀産藤の木、
加賀産山島台ニュータウンが新設されました。
また同時にすべて緑ヶ丘十丁目発着となり、小松行き系統は姿を消しています。
当初は松任経由の4往復をそのまま加賀産経由に振り替えただけだったのですが、
辰口町の急速な発展などもあり、本数は年々増え続け、平成6(1994)年には
はやくも8往復体制となっています。
加賀産経由となって当然幕も新調されています。
表記も当時から現在と同じ「四十万/加賀産」となっていました。
この改正により、松任〜川北〜辰口間は川北線がその役目を受け継ぎました
(と言っても辰口線の減少分は補完されなかったのですが…)。
いっぽうの川北線はその後減便の一途を辿り続け、平成5(1993)年には
5往復にまで減ってしまいました。
平成6(1994)年には松任石川中央病院への一部便の乗り入れを開始しますが、
やはりもともとの利用者が少なかったようで同年加賀白山バスへ移管されています。
加賀白山バス担当となると、不思議な中古車も投入されるようになり、
珍車として今も語り継がれている白山バス199号車もしばしば姿を見せていました。
前幕、横幕ともに「辰口ハイタウン」行きとなっていますが、
撮影されたH−199さんによりますと、これは緑ヶ丘十丁目行きだったそうです。
(背景を見れば緑ヶ丘で撮影されたものがお分かりいただけるかと思います。)
これは先述のように緑ヶ丘行きの幕は辰口線・川北線ともに用意されていなかったためです。
こちらもH−199さんご撮影の003号車で、松任行きの幕は
三反田線と共用でこの幕が用いられていたそうです。
撮影場所は中島東ですのでこれはその三反田線の画像なのですが、
この車両は川北線にもよく入っていたそうで川北町史にも画像が掲載されています。
こちらは06年春に松任石川中央病院前で私が撮影したものです。
この頃には既に辰口橋の拡幅工事が完成しており、大型車での通行も差し支えが
なくなっていたため、エアロスターも走っていました。
現在の川北線はUDのプチが使用されており、そのプチでさえ十分に余裕がある
状態ということですから寂しい限りです。
なお松任石川中央病院を経由しない便は経由地表記が「倉光」となっている
幕を使用していたそうです
(情報ご提供:H−199さん)。
再び辰口線に戻ります。
平成4(1992)年4月からは、北陸先端科学技術大学院大学への乗り入れを
開始しています。
当時はまだまだモノコック車も多く活躍していたため、小型幕の車両にも
同じ幕が入っていました。文字がたいへん小さく見難かったそうです。。。
平成8(1996)年からはクアハウス九谷への乗り入れも開始しました。
こちらはしっかりと幕が新調され、一日わずか一往復ですが見ることができました。
現在も佐野線でこのルートを辿ることはできますが、辰口線のクアハウス系統は
平成14(2002)年4月改正で緑ヶ丘行きとともに姿を消しています。
90年代後半になると、寄り道ルートが増えて辰口線も複雑になってきました。
まず平成11(1999)年からは金沢工大ハイテクセンター経由便が登場し、
こちらは日中便のほとんどが乗り入れています。
また同じく99年10月からはいしかわ動物園への乗り入れも開始しました。
当初は動物園塗装のラッピングバスが主に使用されていて、
90年の国体PRバス以来のラッピング車で話題を呼びました。
▲動物園ラッピングバスは2台あり、辰口線には083が
使用されていました。
画像:もりさけてんさんご提供。
平成14(2002)年4月改正では、緑ヶ丘乗り入れを中止し
かわりに和光台への乗り入れを開始しました。
この時に幕が新調され、LEDになるまでこの幕が使われていました。
なお辰口線の担当は、寺井→南部営業所が長らく担当してきていましたが、
平成16(2004)年4月よりほくてつバス南部支所が担当しています。
工大ハイテクセンターにも先端大学にも寄る便はこの幕が使用されていました。
ここからは金沢方面の幕です。
この幕は91年1月までの松任経由時代に使用されていた兼六園下行きの幕です。
加賀産経由となってからの兼六園下行きの幕です。
平成6(1994)年3月より、辰口線は四十万線とともに武蔵ヶ辻発着に変更されました。
ですので、金沢駅発着となるわずか数年間でしたがこの幕を見ることができました。
朝に香林坊発着便があり、幕もしっかり用意されていました。
平成10(1998)年3月改正から、辰口線は金沢駅発着となり利便性が高まっています。
経由地等の表記は基本的に変わっていませんが、ローマ字併記の幕に統一されたため
雰囲気が少し変わっています。
先端大学経由の金沢駅行きの幕です…
が、よく見ると四十万と加賀産が逆になってしまっています。
工大ハイテクセンター経由の金沢駅行きの幕です。
金沢駅行きはわざわざ系統ごとに幕を使い分けなくても
さほど問題がないように思うのですが。。。
先端大学と工大ハイテクセンターの両方を経由する金沢駅行きの幕です。
ちなみにLEDでは「工大HTC」と省略されていますね。
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