津幡線
( 河合谷線・竹の橋線 )


今では金沢市北部方面路線で、唯一無番号の路線として
目立っているのがこの津幡線です。
ただし、現在では上り方向には「87」番が付けられています。

平成16(2004)年4月に彦三経由に変更され、現在の幕が新調
されました。しかし、既に幕での運行は消滅しています。



現行の旧道経由の幕です。



…明らかに何かが間違っています。
が、これも使われていた幕です。134号車に入っていました。


▼武蔵ヶ辻エムザ前に津幡線、という光景も定着してきました。

津幡線は、昭和18(1943)年12月に誕生しています。
これは「北陸鉄道」としての誕生で、前身の「北陸自動車商会」
により運行されていたものが戦時統合で北陸鉄道の路線となったものです。
(その他詳しくはもりさけてんさんのサイトを参照ください。)

市電廃止までは金沢市内の終点がどこだったのかは、はっきりしていません。
兼六園下または泉車庫だったとおっしゃる方もいれば、資料によっては
太平寺と書かれているものもあり(なぜ太平寺なのかも分かりません)、
謎であるとしか言いようがありません。。。

市電廃止の昭和42(1967)年2月改正では、津幡線の名前は出てこず、
「上荒屋線の一部を本津幡町まで延長する」とあり、
上荒屋〜西金沢〜兼六園下〜二日市〜本津幡 14往復
が設定されています。

しかしこの体制もわずか1年で終了し、昭和43(1968)年11月改正では
兼六園下〜香林坊〜森本〜旧道〜本津幡の系統が30分毎に新設され、
津幡線の名称が復活しています。
この改正では、高松線・羽咋線など長距離路線は新国道(八幡)経由に変更されており
旧道区間の減便を補うためか上荒屋線時代の60分毎のおよそ2倍の本数に
増加しています。

この当時の終点本津幡は「本津幡ターミナル」や「津幡車庫前」とも呼ばれていた
そうで、津幡駐在車も存在していたようです。
また、津幡町内での経路も現在とは異なっており
〜横浜〜川尻口(加賀爪交差点付近に存在)〜津幡四ツ角〜庄町〜本津幡 となっていました。

このような経路を通っていた津幡線ですが、昭和50(1975)年9月からは
四ツ角経由から津幡中央経由に変更されています。
この時期の津幡線は、津幡四ツ角止まり便も多かったようで終点での転回は車掌の誘導のもと
道路上で行っていたようです。しかし、年間500万円の人件費削減のために津幡線は
ワンマン化されることとなり、そのため交通安全策として、商店街の中心部でのUターンは
危険性が多いということで川尻口から津幡中央を経由して本津幡行きに変更することで
対応したようです。
四ツ角乗り入れ廃止には商店街も猛反発したようで、Uターン誘導の人件費負担などを
町当局が検討するほどだったそうです。

ちなみにこの改正では、赤字路線となっていた池ヶ原線の減便と
川尻線の廃止も行われており、津幡地区のワンマン化と合理化が行われていきました。

▲05年〜08年には中型ノンステがメインの運用でした。

昭和50(1975)年4月には、「82」番の番号を与えられています。
が、これもほかの近郊系統同様昭和59年には無番号となっています。

また、この昭和59(1984)年には森本大橋〜横浜間がフリーバス区間に
指定され、現在も続いています。

昭和60(1985)年の改正では、日中の便が60分間隔に減便され、
かわりに87循環寺町B線(兼六園下〜香林坊〜橋場町〜今町(国道))
新設され、減便に対応していますが(今町までは逆に増便となっています)、
これも長続きせず、昭和62年3月改正では
88森本線(金沢駅〜橋場町〜今町)が新設され、循環寺町B線は
わずか2年で消滅しています。

昭和60年に本数を半分に減らされた旧道経由便は、平成に入ってからも
さらに大幅な減便を受けます。
平成(1993)年改正では、半数以上を旧道経由から国道経由に変更し、
高松線と本津幡まで全く同じ経路となったことで、津幡線も高松線も
減便されています。

そして、平成10(1998)年3月には今町までの森本線が柳橋までとなり、
高松線も金沢市内から撤退し寂しい状況となりましたが、87野町鳴和線が
一部今町まで延長されたため、片町から森本方面が便利になりました。
同時に、渋滞による遅延防止のための実験ということで、
橋場町経由から現在の彦三経由に変更されましたが、この時は
利用者のクレームが多発したため6月には橋場町経由に戻されています。

▲系統幕が黒のものを使用していたこともあります。

平成12(2000)年3月改正では、柳橋円光寺線の一部を津幡線が
肩代わりをするという便が数便誕生しました。これは平成16年に1往復
のみとなってしまっていますが、所要時間も長く、乗務員の評判もよくなかった
ことも原因のようです。
また、この年から西工「プチ」が柳橋営業所に導入され、津幡線に
投入されました。これもまた評判がよくなく、積み残しを出すなど
悲惨な結果を多く残してくれました。

そんなこともあり平成16(2004)年4月改正では、兼六園下・円光寺
発着だった津幡線を、朝の本津幡〜円光寺の一往復を除き野町駅発着とし
、野町駅発着便は彦三経由となりました。
これは野町鳴和線の肩代わりで、野町駅行きは87番を名乗るようになり、
野町鳴和線と区別がほとんどつかないようになりました。

さらに翌05年8月には津幡町内の経路変更が行われ、これまでの
清水経由からパピィ1通り経由となり、古くからの津幡四つ角を
通るようになっています。また、終点も本津幡から本津幡駅となっています。
(休憩場所は今もかつての「本津幡」となっています。20〜30年前はこの場所に
「津幡車庫(通称?)」があり、津幡駐在もあったようです。)

しかし、経路変更をするなどの需要掘り起こしもむなしく、
平成18(2006)年より徐々に日中の間引きが始まり、
平成20(2008)年12月改正ではついに日中で2時間も間隔が空く
時間帯も出るなど、かつての面影は薄れつつあります。

この改正で、「野町鳴和線」という路線名は消滅し津幡線に吸収されました。
そのため、現在では野町駅〜柳橋の便も津幡線の区間便という扱いとなっています。

▲橋場町経由時代の津幡線の姿。旧型エアロがよく似合います。

私の記憶では、98年の大改正前までは夕方の津幡線に乗ると
法光寺まで立ちっぱなしだったことを覚えています。
それから、野町駅発着になる直前の04年頃まではちょうど10時過ぎに
武蔵ヶ辻に到着する津幡からのバスは、柳橋では座れませんでした。

先日ほぼ同じ時間を走る野町駅行きに柳橋から乗車したのですが、
なんと武蔵ヶ辻まで立ち客が出ることなく到着してしまいました。
津幡線だけではありませんが、柳橋方面の乗客はこの数年でもかなり減少
していることは確かだと思います。


担当は、柳橋→01年より「ほくてつバス」(円光寺系統のみ北陸鉄道のまま)
となり現在に至っています。



98年に彦三経由となったときに使用されていた幕です。
わざわざ幕を新調していたことからも、定着させるつもりだったのでしょう。
しかし先述のとおり、同年6月には再び橋場町経由に戻り、
幻の幕となりました。
(幕情報ご提供:もりさけてんさん)



円光寺→本津幡に使われている幕です。
なお、本津幡→円光寺は柳橋→円光寺と同じ幕です。


▼現在も一本のみが残っています。「森本、八幡経由、本津幡行きです」

円光寺発ですが、かつての津幡線の雰囲気を楽しめる系統が
現在もなお残っています。
免許の都合とかそういった理由でしょうか。。。



04年4月まで使用されていた、橋場町経由だったころの幕です。
画像の元周遊バスは、01年から03年まで津幡線で多く見られました。
この時期は、日野の中型RJも使用されており、多様な車両が走っていました。

ちなみに、07年に柳橋から幕車はなくなりましたが、
最期までこの幕は搭載したままでした。

そういえば、津幡線は車内放送がテープの頃は
なぜか「98番、森本、八幡経由本津幡行きです」
と言っていたり、年によっては81番を名乗っていたり
と、謎な放送もしていました。テープの声も
循環寺町などのほかの柳橋の路線のものと異なるものが
使用されていたりもしました。

画像:H−199さんご提供。

▲横幕です。



ローマ字併記になる前の国道経由の本津幡行きの幕です。

国道経由…とつい今でも言ってしまいますが、08年4月より
国道は津幡バイパスのほうに移り、県道に格下げとなっています。



平成10年の大改正までは、兼六園下を20時以降に出る津幡線は
すべて新津幡止まりとなっていました。
これは昔から行われてきており、少しでも運用効率を高めるためなのか
勤務時間の関係によるものなのかは分かりません。。。



こちらは旧道経由の幕です。

兼六園下で発車待ちをしている、今となっては貴重な写真も撮ったはず
なのですが、残念ながら紛失してしまいました。。。

▲横幕です。「鳴和」がなくなり、「二日市」「潟端」が
 追加されています。


▲ハイグレード車の横幕です。
 上段幕にも経由地表記があります。




ローマ字併記になる前の旧道経由の幕です。



旧道経由の新津幡行きの幕です。
新津幡到着後は、そのまま今度は国道経由の柳橋行きとなって
回送を兼ねて走っていました。



昭和60年ごろの兼六園下モータープールでの一枚です。
後方右のバスはブルの一代前の形式で「羽咋駅」行き、
後方左のブルドッグは「急行 東回り 七尾駅」です。

「フリーバス」懐かしいですね〜
もちろん、現在でも森本大橋〜横浜間はフリーバス区間
となっているのですが、いつの間にやらこの表示は
見れなくなりました。なお、
同区間のフリーバス開始は昭和59(1984)年です。

津幡線もまたブルドッグでの運用でした。しかも77年式以前の
2枚折戸の車両でした。そして、小型幕の車両はなるべくスッキリ
と見えるように「本津幡」ではなく「津 幡」表記でした。

この旧幕ですが、34-871号車のみ
96年くらいまで「津 幡」幕が残っていたそうです。
(情報ご提供:もりさけてんさん。)
当時私はまだ小学生、ちょうどバス趣味から離れていた頃だったためか、
この頃最期を迎えた柳橋のブルドッグも記憶にありません…
惜しいことをしたものです。

画像:H−199さんご提供。



橋場町経由がなくなると、その経由地を消して
早朝の柳橋→本津幡の便に使われていました。



もちろん純正品(?)の幕もあります。



柳橋行きは現在ではなくなっていますが、かつては夜に本津幡からの
回送がわりで柳橋行きが走っていました。



二日市経由の柳橋行きは、私の手元にある時刻表では確認できませんが、
幕はしっかりと作られていました。



国道経由の柳橋行きの幕です。
新津幡からの柳橋入庫便で使用されていました。



88年に中型車が導入され、新車が津幡線や高松線に投入される
という異例な配置となりました。90年には、この88年式を
置き換え、この90年式(パイプ椅子ではない)が90年代の津幡線の
カオともいえる車両でした。

この車両は、私の記憶にある限りではすでに登場後数年を
経過しており、すっかり津幡線の代名詞となっていましたが、
もりさけてんさん曰く、
「中型も88年の登場時は本当に輝いていたんですよ。
バスなどに興味もない祖父も『新車やな』と云い、
乗客も『新バスや新バス』と話しているのがきこえました。

なにしろ、その前はデジタル運賃表も冷房も無かったわけで、
しかも車内には新車のニオイ。(今から思うと信じられませんが)
デジタル表示に【森 本 大 橋】と表示されたときの
あの嬉しさは、おそらくもう感じられないと思います。」
とのことです。

97年にはこの中型車は津幡線から消えて全て能登地区へと移籍して
いきました。最近まで活躍していたのですが、とうとう今年で全滅でしょうね。。。
その97年ごろの柳橋には、
79−116:河合谷線
70−166:津幡線旧道線
70−167:森本線
での活躍でした。私個人的には、169(画像の車両)の印象が強いですね〜
あの頃はまだ国道上の柳橋バス停がなく、法光寺までよく利用したものです。

この、経由地が「武蔵ヶ辻」表記のものは、初期のエアロスターと中型車のほか、
ローマ字併記前のハイグレード車の高松線にはこの幕が使用されていました。

画像&情報:もりさけてんさんご提供。



経由地が「香林坊」表記のものは、中型車やハイグレード車
(ローマ字併記前・津幡線)に入っていました。



こちらの幕は、中型車とブルドッグほかエアロスターの一部でも
見ることができました。比較的最近(といっても10年以上前ですが)
まで残っていたように思います。



最終期の幕です。旧道経由も国道経由も共通の幕です。
武蔵ヶ辻か香林坊の表記が欲しかったところでしたが。。。



おまけです。
平成16(2004)年4月からは、87番を市内方向は
掲げるようになりました。
それまでの87番は「彦三/香林坊 野町駅」の幕でしたが、
なぜかこの時にこの幕に新調された車両が何台もいました。





現在は津幡町営バスの一路線となっている河合谷線も、
平成9(1997)年3月までは北鉄の路線でした。

昭和32(1957)年7月、まず金沢(兼六園下か泉車庫?)〜津幡〜河合谷間の河合谷A線
開業しています。同日には高松海岸線と観法寺線が開業しており、一気に金沢北部と津幡町の
バス利便性が高まっていまっています。これらはいずれも泉車庫の担当だったようです。

同年12月には、川尻〜池ヶ原間の河合谷B線も開業しておりそれぞれ後に
川尻線(兼六園下〜森本〜八幡〜川尻)と河合谷線の池ヶ原系統となります。

昭和43(1968)年11月改正では路線が整理され、
河合谷線・川尻線のいずれも兼六園下発と津幡四ツ角発に分けられ、同時に
森本〜津幡間はこれまでの旧道経由から高松線と同様の国道八幡経由に
変更されました。

昭和50(1975)年4月には、河合谷線・川尻線ともに津幡線と同じ「82」の
路線番号が与えられますが、津幡線などと同様昭和59年11月には無番号に戻っています。

この昭和50年は津幡地区の不採算路線(池ヶ原線と川尻線)の廃止と津幡四ツ角乗り入れの
取りやめが北鉄から発表された年でもあります。
このうち津幡四ツ角乗り入れの取りやめについては商店街などからの猛反発があったそうですが、
廃止の発表があった川尻線に関しては、利用者が少ないことから町当局も
認めざるを得なかったそうです。
川尻線についてはその後いっさい資料に登場しないことから、おそらくそのまま
昭和50年9月に廃止となったようです。

一方の池ヶ原線ですが、こちらはその後も河合谷線の一部として存続していますので
おそらく減便という形で折り合いがついたものと思われます。
あるいは、内川線のように現在も存続しているものの戸籍上は野田線の一部となっている
のと同様に、このときに「池ヶ原線」は戸籍上廃止を迎え河合谷線に編入されたのかも
しれません。

川尻線が廃止されると、河合谷線が代替としてなのか津幡行政センター発着となっています。

昭和55(1980)年には、河合谷発の朝一本のみが
兼六園下行きとして運行していました。これは時刻表を見る限り津幡線との
「結合路線」としての運行だったようで、津幡〜森本間は旧道を経由していました。

この金沢直通便は昭和60年代にはいったん消滅しますが、
平成5(1993)年には若干の減便と引き換えに早朝の便を除き全便が金沢へと
直通するようになりました。ちなみに、津幡〜森本間は国道経由でした。
画像の幕はこの頃のもので、使用される車両はバックアイカメラ装備の
116や941がメインだったそうです。
(情報ご提供:もりさけてんさん。)

しかしこうしたテコ入れも乗客減少を防ぐ決定的な手段にはならなかった
ようで、翌年には金沢直通便は朝夕のみとなっています。
それでも平成8(1996)年には上大田に立ち寄るようになるなど、最後まで
改善の努力が見えましたが、97年2月に津幡町営バスに移管される形で
廃止となりました。





竹の橋線(兼六園下〜香林坊〜橋場町〜森本駅〜二日市〜新津幡〜竹の橋)は、
河合谷線と比べてさらに津幡線の支線のような存在の路線でした。

竹の橋線の開業年次は不明ですが、当初は泉営業所の担当だったようで泉車庫発着でした。
そして昭和43(1968)年11月からは、津幡線と同様に兼六園下発着となっています。
当時からすでに2往復という極端に少ない本数(朝夕に一往復ずつ)で、
時刻表でも津幡線と同じ枠の中に書かれており、当時からすでに竹の橋線は支線的扱い
だったことがうかがえます。

昭和50(1975)年4月には津幡線らと同様に「82」の路線番号を与えられていますが、
9年後の84年11月には再び無番号となっています。

幕はこの頃のもので、ブルドッグに入っていました。
幕情報ご提供:もりさけてんさん。



昭和63(1988)年に中型の新車が津幡線や高松線に導入されると、
竹の橋線にも姿を見せるようになりました。
幕はシンプルに「竹の橋」だけとなりましたが、この幕を見れた期間も短く
平成3(1991)年3月末には廃止となり、津幡町営バスに移管されています。

画像はおがさんご撮影のもので、竹の橋線最終日に撮影されたものです。


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